マラドーナの伝説と偉業のすべて
2020年11月25日、60歳にして世界中の人々に愛され、神に愛され、ボールに愛され、サッカーに愛された、未来永劫史上最高のサッカー選手であるディエゴ・アルマンド・マラドーナがこの世を去りました。
彼の功績や偉業は地球人類史に深く刻まれる財産であると言っても過言ではないと思います。
イエス・キリストやアルベルト・アインシュタインがそうであったように。
そんなマラドーナの伝説と偉大さについて、私が知りうるすべてを紹介したいと思います。
マラドーナは永遠です。
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マラドーナのプロフィール
本名 | ディエゴ・アルマンド・マラドーナ |
出身地 | アルゼンチン ブエノス州 ラヌース |
生年月日 | 1960年10月30日 |
没年月日 | 2020年11月25日(60歳) |
性別 | 男 |
マラドーナの略歴
年月 | 年齢 | 略歴 |
---|---|---|
1974年 | 14歳 | アルヘンティノス・ジュニオールスにてトップ昇格 |
1976年10月 | 15歳 | アルヘンティノス・ジュニオールスにてプロデビュー |
1976年11月 | 16歳 | アルヘンティノス・ジュニオールスにてプロ初ゴール |
1977年2月 | 16歳 | アルゼンチン代表初招集・デビュー |
1978年 | 17歳 | W杯アルゼンチン大会の代表チームから落選 |
1979年8月 | 18歳 | U20代表のキャプテンとしてワールドユースに出場 |
1981年2月 | 20歳 | ボカ・ジュニアーズに移籍 |
1982年6月 | 21歳 | バルセロナに移籍 |
1982年6月 | 21歳 | W杯スペイン大会にてW杯デビュー&初ゴール |
1984年6月 | 23歳 | ナポリに移籍 |
1986年5月 | 25歳 | W杯メキシコ大会に出場 |
1990年6月 | 29歳 | W杯イタリア大会に出場 |
1991年3月 | 30歳 | イタリアサッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受ける(薬物反応) |
1992年9月 | 31歳 | セビージャに移籍 |
1993年10月 | 32歳 | ニューウェールズ・オールドボーイズに移籍 |
1994年6月 | 33歳 | W杯アメリカ大会に出場。薬物反応にてFIFAから15か月間の出場停止処分を受ける |
1995年10月 | 34歳 | ボカ・ジュニアーズに移籍 |
1997年10月 | 37歳 | 誕生日に現役引退 |
2008年10月 | 47歳 | アルゼンチン代表監督に就任 |
2010年6月 | 49歳 | アルゼンチン代表監督としてW杯南アフリカ大会に出場 |
2010年7月 | 49歳 | アルゼンチン代表監督を解任される |
2011年5月 | 50歳 | アル・ワスルの監督に就任 |
2012年7月 | 51歳 | アル・ワスルの監督を解任される |
2017年 | 56歳 | アル・フジャイラの監督に就任 |
2018年9月 | 57歳 | ドラドス・デ・シナロアの監督に就任 |
2019年6月 | 58歳 | ドラドス・デ・シナロアの監督を辞任 |
2019年9月 | 58歳 | ヒムナシア・ラ・プラタの監督に就任 |
2019年11月 | 59歳 | ヒムナシア・ラ・プラタの監督を辞任 |
2020年11月 | 60歳 | 心不全により死去 |
マラドーナの個人記録(選手時代)
■クラブ通算:588試合出場307得点
年度 | 所属チーム | 記録 |
---|---|---|
1976 | アルヘンティノス・ジュニオールス | 11試合出場2得点 |
1977 | アルヘンティノス・ジュニオールス | 49試合出場19得点 |
1978 | アルヘンティノス・ジュニオールス | 35試合出場25得点 |
1979 | アルヘンティノス・ジュニオールス | 27試合出場26得点 |
1980 | アルヘンティノス・ジュニオールス | 45試合出場43得点 |
1981 | ボカ・ジュニアーズ | 40試合出場28得点 |
1982-1983 | バルセロナ | 29試合出場19得点 |
1983-1984 | バルセロナ | 23試合出場15得点 |
1984-1985 | ナポリ | 36試合出場17得点 |
1985-1986 | ナポリ | 31試合出場13得点 |
1986-1987 | ナポリ | 41試合出場17得点 |
1987-1988 | ナポリ | 39試合出場21得点 |
1988-1989 | ナポリ | 50試合出場19得点 |
1989-1990 | ナポリ | 36試合出場18得点 |
1990-1991 | ナポリ | 25試合出場10得点 |
1992-1993 | セビージャ | 29試合出場7得点 |
1993-1994 | ニューウェールズ・オールドボーイズ | 3試合出場0得点 |
1995-1996 | ボカ・ジュニアーズ | 11試合出場3得点 |
1996-1997 | ボカ・ジュニアーズ | 13試合出場2得点 |
1997-1998 | ボカ・ジュニアーズ | 6試合出場2得点 |
■代表通算:115試合出場47得点
年度 | チーム | 記録 |
---|---|---|
1977-1979 | アルゼンチンU20代表 | 24試合出場13得点 |
1979-1994 | アルゼンチン代表 | 91試合出場34得点 |
マラドーナが獲得したタイトル・賞・功績
年度 | タイトル・賞・功績 |
---|---|
1978 | リーグ得点王(AFA) |
1979 | ワールドユース優勝&ゴールデンボール賞(MVP)(FIFA) |
1979 | リーグ得点王(AFA) |
1979 | 年間最優秀サッカー選手(CEPA) |
1979 | アルゼンチン最優秀スポーツマン(CPD) |
1979 | アメリカ大陸最優秀サッカー選手(エル・ムンド) |
1980 | リーグ得点王(AFA) |
1980 | 年間最優秀サッカー選手(CEPA) |
1980 | アルゼンチン最優秀サッカー選手(CPD) |
1980 | アメリカ大陸最優秀サッカー選手(エル・ムンド) |
1981 | リーグ優勝(AFA) |
1981 | 年間最優秀サッカー選手(CEPA) |
1981 | アルゼンチン最優秀サッカー選手(CPD) |
1986 | ワールドカップ優勝&最優秀選手(FIFA) |
1986 | 年間最優秀サッカー選手(CEPA) |
1986 | アルゼンチン最優秀サッカー選手(CPD) |
1986 | アルゼンチン最優秀スポーツマン(CPD) |
1986 | 世界最優秀サッカー選手(ONZE) |
1987 | リーグ優勝(スクデット)(FIGC) |
1987 | コッパ・イタリア優勝(FIGC) |
1987 | リーグ得点王(FIGC) |
1987 | 世界最優秀サッカー選手(ONZE) |
1988 | コッパ・イタリア得点王(FIGC) |
1988 | UEFAカップ優勝(UEFA) |
1989 | アメリカ大陸最優秀サッカー選手(エル・ムンド) |
1990 | リーグ優勝(スクデット)(FIGC) |
1990 | ワールドカップ準優勝(FIFA) |
1990 | アメリカ大陸最優秀サッカー選手(エル・ムンド) |
1992 | アメリカ大陸最優秀サッカー選手(エル・ムンド) |
1993 | アルテミオ・フランキ杯優勝(代表)(FIFA) |
1996 | バロンドール特別賞(フランス・フットボール) |
1999 | 20世紀におけるアルゼンチン最優秀スポーツマン(CPD) |
※()内は当該賞やタイトルを授与したサッカー協会やスポーツ誌などです。
マラドーナの伝説的なエピソードの数々
〇 アルヘンティノスの下部組織時代、12歳にして15歳のチームでプレー
〇 アルヘンティノスの下部組織でのボールボーイ時代、監督にハーフタイムにリフティングをするよう言われ披露。観客から拍手喝采を浴び、以降恒例化
〇 アルヘンティノスの下部組織時代、13歳のときに7人抜きのゴールを決める
〇 15歳でトップリーグデビューして以降わずか11試合でA代表初招集
〇 アルヘンティノス時代、試合前4ゴール決めることを予告し実際に4ゴール決めてしまう
〇 1981年、親善試合でコートジボワールに行ったとき、大勢の黒人の子どもたちに囲まれ、幼少期の愛称で呼ばれる(※当時のコートジボワールでこの知名度と人気は考えられない)
〇 バルセロナ時代、アスレティックのゴイコエチェアの殺人タックルを浴び3か月以上の大けがを負うも(マルカ紙で「芸術家禁止」の大見出しが躍る)、復帰後初戦で2ゴール、2戦目でも2ゴールを叩き込む
〇 1984年のバルセロナ時代、国王杯の決勝において大けがを負わされたゴイコエチェアのいるアスレティックとの対戦でチーム同士の大乱闘の引き金をひく。(貴賓席にはファン・カルロス国王も観戦にきていた)
〇 ナポリ時代、試合に負けているハーフタイム中ずっとオレンジをリフティングし続け(一度も落とさず)チームメイトを励ます
〇 代表での親善試合で、アウェーにも関わらず、試合前のウォーミングアップ中のリフティング(マラドーナがよくやる靴ひもを結ばずボールを高く上空に上げるリフティング)で観客から大きな拍手喝采が起きる
〇 22歳にしてA代表のキャプテンに就任。以降も10番でキャプテンが定番となり、キャプテンとしてのワールドカップ出場試合数は世界最多を誇る
〇 1982年に起きたフォークランド紛争(イギリスとアルゼンチンの領土を巡る武力衝突。アルゼンチンの敗戦)で国同士の遺恨も浅くない両国の1986年メキシコW杯ベスト8の試合での直接対決が実現。怒りと復讐に燃えるアルゼンチン国民の思いを背負う中、神の手(見事なハンド)と5人抜きという悪魔と神のような所業を大事なゲームで世界中に見せつけ、たった一人でイングランドを敗戦に追いやる。その後優勝。メキシコ大会はマラドーナがたった一人でチームを優勝させてしまったことから”マラドーナの大会”と語り継がれている
〇 二部降格争いを演じていたイタリアの弱小クラブであったナポリに移籍後、クラブに史上初の国内タイトル(スクデット・国内カップ戦)と国際タイトル(UEFAカップ(現在のEL))をもたらす。ナポリでは銅像やスタジアム名などマラドーナ由来のものが数多くあり、歴史上の偉人となっている
〇 1990年イタリアW杯、マラドーナはナポリで他クラブを敗戦に多く追いやっていたことに加え、その言動やマフィアとの噂、薬物使用疑惑などもありナポリ以外ではイタリア全土でアウェーであった。そうした中トーナメントでイタリアとの対戦が決まる。しかも神のいたずらかスタジアムはナポリであった。ナポリの観客はイタリア代表かマラドーナどちらを応援するか選択を迫られるが、マラドーナを選択。アルゼンチン代表がイタリア代表をくだす
〇 1990年イタリアW杯決勝で西ドイツのブッフバルトとマテウスがマラドーナを執拗にマーク。マラドーナがピッチの外でボールを拾うときも水分補給するときも絶えず離れないという今なお他に例を見ない異常なマンマークを見せる
〇 1993年、1994年W杯アメリカ大会の南米予選で敗退の危機(オーストラリアとのプレーオフにまで行ってしまう)にあったアルゼンチン代表は15か月間の出場停止処分などで代表から遠ざかっていたマラドーナを呼び戻す。いきなり代表復帰後のプレーオフでキャプテンマークを巻いたマラドーナがアシストを決めチームを本大会出場に導く
〇 1994年アメリカW杯、予選リーグのギリシャ戦で見事なパスワークからまたしても歴史に残るゴールを決める(神が測ったかのような寸分たがわぬ隅にゴール)。世界中の人々を熱狂させるも、その後薬物陽性反応が出て大会を去る。神の手と5人抜きのときのように短時間で他の誰もできないような両極端な衝撃をまたしても世界中に与える
〇 1995年のボカ復帰後、判事の指示で警察がマラドーナのパーティでコカインを押収する事件が起きたが、これは判事が仕組んだことであったことが後に判明。この判事は弾劾裁判で罷免される
〇 2010年南アフリカW杯、監督として臨んだ大会で、メッシら選手たちより注目を浴びる。カメラに一挙手一投足を追われる中、試合中ピッチの外に転がってきたボールをスーツ姿にも関わらず現役選手の誰よりも上手くコントロールして見せる
〇 代表監督時代、当時フリーキックを重要視していなかったメッシにフリーキックの蹴り方をアドバイス。後にメッシはフリーキックでゴールを量産するようになる
マラドーナの偉大さがわかる周囲のコメント
少年時代の友人「僕たちは何でもボールの代わりにした。空き缶や空箱、あらゆるものをボール代わりに蹴ってサッカーをした。信じられないだろうけど、ディエゴは地面にあるタバコの吸いがらさえも、上手に足で浮かしていたんだ。」
フランシスコ・コルネホ「もしディエゴが白いタキシードでパーティに出かけても、突然、空から泥だらけのボールが降ってきたら、絶対に胸でトラップするだろう。」
カラスコ「(バルセロナ時代)ボールを扱うコントロールテクニックは、自分が初めて見た完璧な選手だった。マラドーナがボールをコントロールしながら走るとき、あるいはディフェンスをドリブルでかわすとき、それはまるでボールが足にくっついている感じなんだ。あれは最初の合同練習のときだったと思う。彼が初めてボールに触った瞬間、周りの選手の動きがストップしたんだ。すべての選手の目がマラドーナの足下に釘付けになっていた。なぜかって? 彼が繰り広げる色々なボールテクニックを実際に見るのはみんな初めてだったからさ。ああいう選手はもう二度と出てこないと思う。」
サッキ「世界のサッカーを革新した私のゾーンプレスは、元々はマラドーナを封じるために編み出した対策だ。」
ブライアン・ラウドルップ「個人の力だけを重視する人はサッカーが分かってないよ。現代のサッカーはレギュラーだけでなく、ベンチを含めて20人以上のタレントを揃えて、初めて強いチームが成り立つんだ。たった1人で11人を相手にできるのは、マラドーナだけだ。」
ブライアン・ロブソン「(神の手ゴールを指して)一本目はトリックだ。(5人抜きゴールを指して)二本目は奇跡だ」
ピーター・ビアズリー「もし、マラドーナがトロントで生まれていたら、カナダがワールドカップ決勝でドイツと戦っていただろう。」
プラティニ「ジダンがボールを使って出来ることを、ディエゴはオレンジでやってしまう。」
ロマーリオ「私とバッジョはスターではあるがスーパーな存在ではない。今のサッカー界でスーパースターと呼べるのはマラドーナだけだ。」
ジョージ・ベスト「あのアルゼンチン人がチームにいればゴールは約束されたと考えていいだろう。」
ヨハン・クライフ「奴には選手としては全て叶わない。」
ジーコ「私とマラドーナを比べる事は彼に失礼だ。」
ベッケンバウアー「(1985年西ドイツとアルゼンチン代表の共同の記者会見にてアルゼンチン代表監督のビラルドが記者にマラドーナをチームに入れるのかと聞かれ)もし彼を入れないのなら私にくださいよ。」
ブッフォン「究極のベストイレブンは1人のGKと9人のDFと1人のマラドーナだ。」
ファンバステン「彼と私を同じものさしで比べないでほしい。才能とコーチ、環境に恵まれ努力をし続ければ私のような選手になれるだろうが、彼にはなれない。私のように得点王になる事が出来ても、彼のようにどんな選手にでも得点を取らせて、自らも得点王になることは出来ない。私は彼のようになるにはどうしたら良いのか解らない。私には歴代最高の選手達が非常に近く見えるが、彼だけは見えない。彼の背中すら見えないのです。」
ゾラ「(ナポリでトレーニングをともにして)何度、練習を中断して彼に拍手を送ったか分からないよ。彼が繰り出すプレーは、信じられないものだった。どんな時も、彼には及ばないと思わされたね。ある日、私たちは11人対11人の試合をしていた。GKがピッチの中央にいた彼にボールを投げたんだ。彼はそれを胸でコントロールして、ボールを落とさないまま、マークをしていた選手をかわしたんだ。そのままボレーでシュートを放ち、反対のゴールにいたGKの守るゴールを射抜いたんだ。私たちは、彼が決めたゴールが信じられなかったよ。」
カレカ「(ナポリ時代)ディエゴは私のところに来るのが好きで、よく一緒にバーベキューをした。もちろんブラジル風シュラスコだ。しかしディエゴは、肉ならアルゼンチン風のアサードが一番だと、こんなの本当の肉の食べ方じゃないといつも文句を言っていたよ。その割には、彼は食べる専門で、一度も料理してくれたことはなかったけどね。カイピリーニャ(ブラジルのカクテル)を飲みながら、私が肉を焼き終わるのを待っているんだが、手持ちぶさたなのか、そのうち酒に入れるレモンでリフティングを始める。私は気がつかないふりをしていたが、少なくとも100回ぐらいは続いていたかな。それを見ながら、こんなスターが近くにいて、うちに遊びに来ているなんて、信じられないことだと思ったものだ。でも、そんなことは一度も彼には言わなかった。そうでないとディエゴは天狗になってしまうからね。」
ナポリのサポーター(貧困層が当時は多かった)「我々には家がない。学校もない。バスもなければトイレの水もアイデアもない。でも我々にはマラドーナがいるんだ。」
ナポリのサポーター「自分の息子たちよりお前を愛している!」
ボカのサポーター「(95年復帰時に)10番がいるって?なんと素晴らしい!」
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マラドーナ語録
「リベロとしてプレーするのは好きだったし、(中略)。リベロになれば後ろから全部見渡せるし、ピッチ全体が見渡せるし、ピッチの主でいられるからね。」(マラドーナ自伝4pより)
「サッカー選手は怠け者なのに金を稼ぎすぎだなんて言う奴がいるけど、十センチもの長さの注射針を、足の付け根や足首、膝や腰にまでグサッと刺される辛さがわかるかい?」(マラドーナ自伝p134より)
「監督が試合を勝たせると考えている人がまだいる。間違ってるよ。選手なしじゃ作戦なんて成り立たないんだから。」(マラドーナ自伝p144より)
「キャプテンをするのは大好きだった。(中略)旅行に出る度、オーストリアにいてもニューヨークにいても、いつもやることと言ったら腕章を買うことだった。」(マラドーナ自伝p157より)
「(5人抜きは)小さな頃から夢見ていたゴールだった。あのゴールをもう一度見返すと、あんなことをやったのが嘘のように思えるんだ。別に自分がやったからじゃない。でも、あんなゴールをやるのは不可能に思えるんだ。夢に見ることができても絶対に実現できない。今となっては神話だけれど、だからこそ、いろんなでたらめが出てきた。僕があの瞬間に弟のアドバイスを思い出したとか……。でもあとで気づいたのは、何かが頭の中に浮かんだに違いないってこと。」(マラドーナ自伝p183より)
「僕は十五歳で、自分の価値を証明しなければならなかったんだ。二十歳でそれを確認した。二十五歳で世界一の選手という自分をキープするために戦い、二十九歳では‐あのとき、九0年イタリア大会で‐失敗するかどうか……。」(マラドーナ自伝p230-231より)
「今晩、唯一喜ばしかったのは僕のおかげでミラノのイタリア人たちが人種差別主義者でなくなったとわかったことだった。今日初めて奴らはアフリカ人をサポートしたからね」(1990イタリアW杯カメルーン戦後)
「ブラジルは絶対に仲間同士で裏切るような真似はしなかった、一度も。そう、ブラジルは九四年に、最悪のチームなのに優勝するんだ。(中略)八二年大会のチームなら、九四年のチームに少なくとも五ゴールは入れてたね。」(マラドーナ自伝p250-251より)
「マラドーナはマラドーナ次第だったということさ。」(マラドーナ自伝p283より)
「今一度断言する。僕は両足を切られたのさ。」(1994年アメリカW杯で薬物陽性反応により大会から去ることが決まった直後)
「生き返ったかだって?僕は一度も死んじゃいないさ。」(1995年ボカ復帰時)
「俺は今まで、色々な間違いを犯した。だが、サッカーを愛するすべての人々よ、これだけは分かって欲しい……。フットボールを汚したことなんて、一度たりともない。」(現役引退のスピーチ)
他の選手に対するマラドーナの評価(マラドーナ自伝p405-423より抜粋)
★マラドーナ自伝はこちら↓
自伝において、出版当時(2002年当時)のマラドーナが自身にとってのベスト100のプレイヤーを挙げてコメントしています。中田英寿も99番目に入っていて非常に興味深い内容になっています。ここでは抜粋して紹介します。
ペレ←「選手としては最高だったけど、サッカーのレベルを向上するためにそれを利用することはできなかった。」
クライフ←「フィジカルも判断も他の誰よりも速かったから、いつも有利なポジションをとっていたんだ。カニージアみたいな瞬発力で、一から百にスピードを上げておいて、いきなりブレーキをかけていた。それにピッチ全体を見渡す素晴らしい視野を持っていたよ。」
プラティニ←「格のある、素晴らしい選手だ。イタリアで全てを勝ち取ったけど、彼はサッカーしながら楽しんでいないイメージがいつも僕に残ったよ。」
ジーコ←「試合の監督だね。ペレがつけていた10番を、何の問題もなくつけたからね。偉大な選手としての品格を持っていた。素晴らしい男であり、ファンタスティックな選手さ。」
ロナウド←「偉大なあの子は、名声の渦に巻き込まれてしまった。」
マルコ・ファン・バステン←「ゴールを決めるマシンだ。最高の選手だったけど、ナンバーワンになるには至らなかった。」
ロマーリオ←「彼には多大な尊敬心を抱いてるよ。彼ほどの決定力を持ったストライカーを見たことがない。速いし、凄いよ。ゴールに向かって突進したら、絶対に決めていた。彼については疑問を抱いたことなんかない。僕の理想のチームに入っているよ。」
ロベルト・バッジォ←「美しき者は偉大だ。完全に才能を開花させたことはなくても。」
ガスコイン←「素晴らしいスターになるべくしてキャリアを歩み始めたけど、立ち止まってしまった。」
デル・ピエロ←「プレーするのが好きだし、サッカーを魂に感じているんだ。彼とジダンだったら、僕は彼がいいな。」
オーウェン←「九八年フランス・ワールドカップが残した唯一のタレントだ。スピードも、ずる賢さも、根性もある。負傷で壊されないことを祈っているよ。」
マテウス←「僕のキャリアにおける最高のライバルだ。」
ミカエル・ラウドルップ←「八六年メキシコ大会で、僕が最も気に入った選手のひとりだった。何でもワンタッチで簡単にやってのけた。」
サビオラ&アイマール←「ふたりとも大好きさ。(中略)彼らはものすごくスピードがある。」
リケルメ←「僕が持っていたような、短いダッシュで相手の守備を崩すほどのスピードはないから、他のことを活用しなければいけないな。」
シメオネ←「セビリアでは僕のために走っていた。代表で一緒だったときは、僕と同じようにアルゼンチンのユニフォームに命を賭けていたよ。」
レドンド←「僕たちはピッチの外では全然違うけれど、ワールドカップではお互いによく理解していた。僕はあいつの長い足からどの辺りにいればパスが来るかわかっていたし、あいつはあいつで僕が完璧なパスを出すとわかっていたのさ。いつもお互いを探していたんだよ。」
ゾラ←「ナポリでの僕の後釜だ。僕が練習でやっていたことをしっかりと観察していたよ。」
バルデラマ←「全てのコロンビア人にサッカーとはどうプレーするのかを見せた。(中略)四十歳になっても、五十歳になっても続けられるだろう。プレーするために走らなくてもいいからね。」
カントナ←「僕みたいにクレイジーで、反逆児でもある。(中略)マンチェスターのサポーターに聞いてみなよ。奴らは彼をナンバーワンに選ぶって。」
ベッケンバウアー←「エレガントなプレーが印象に残っているよ。」
ヒデトシ・ナカタ←「日本人全員がこいつのようにプレーし始めたら、僕たちはもうお終いだよ。キックの仕方も、ドリブルも、良くわかっている。」
ベッカム←「ピッチに立つには美しすぎる男だ。彼はスパイスガールズの女房を気にかけすぎるけど、たまにボールを持つといいパスをする。」
最後に
いかがでしたか?マラドーナがどれだけ偉大で伝説の人物かわかりますよね。
地球と人類とサッカーが存在する限り未来永劫語り継がれる(語り継ぐべき)存在だと思います。
改めて、哀悼の意とともに大いなる感謝を表したいと思います。
★主な参考資料は以下のものとなります。興味のある方はこちらからどうぞ。↓
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