中村俊輔の引退会見内容全文

中村俊輔の引退会見内容全文

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2022年11月中村俊輔がスパイクを脱ぎました。

中村俊輔は、日本代表の10番として、稀代のレフティとして、ピッチで人々に幻想的かつ芸術的なプレーを見せるファンタジスタとして、世界中に記憶されるフリーキッカーとして、人々の記憶に残るサッカー選手です。

44歳まで現役生活を続けてきましたが、遂にこの日が来ました。

桐蔭学園高校時代から追いかけてきた同い年の筆者としては感情が強く揺さぶられる引退です。

決して順風満帆ではなかったかもしれません。しかし横浜マリノスでデビューを果たし、イタリアのレッジーナで不屈のプレーを見せ、スコットランドのセルティックで素晴らしい全盛期を過ごしました。

日本代表としてはジーコ監督時代に10番を背負い、アジアカップでは政治的にもアウェイの中国の観衆を黙らせる才能あふれるプレーを連発しチームを優勝に導きました。コンフェデレーションズカップではフランスとブラジル相手に見事なゴールを決めました。

これほど脳裏に焼き付くプレーをする選手は他に類を見ません。

間違いなく日本サッカー史上ナンバーワンの”ファンタジスタ”であり”ナンバー10”だと思います。

そんな中村俊輔の2022年11月10日に行われた引退会見の全文を紹介したいと思います。

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(冒頭、小野伸二、川口能活、遠藤保仁、三浦知良、岡崎慎司、ゴードン・ストラカンからビデオメッセージあり。続いて会見へ。)

引退決断後、心境の変化は?

そこまでないですね。今、ワールドカップがあるということで早くリーグが終わり、チームは1か月くらい練習があるので参加させてもらって、練習試合にも出た。今後、引退という気持ちになると思うけど、仲間からはあの人来年もいるんじゃないかという感じになっている。もう少しやらせてもらっています。

引退の決断経緯と、最初に相談された方は?

30後半くらいからはいつでもできるようにというか、より悔いのないように、単年契約をこのチームともさせてもらってそういう気持ちでやっていた。今シーズンに入って足首の状態が良くなくなってそれから。相談したのは家族であり、妻ですね。

ここまではどんなサッカー人生だったのか?

原動力は単純に自分の中から出てくる情熱、サッカーが好きで上手くなりたい。上に行くにしたがって似たような選手が集まる。カズさんとやると思わなかった。自分よりサッカーが好きな選手と会えたのは財産。日本代表のためにやっていたので、そういう仲間たち、メッセージをくれた選手たち。能活さんは若い時にボールを受けてくれて、同じパーソナルトレーナーだったのでジムで汗水流して。そういう人たちに囲まれたのは大きかった。

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代名詞のフリーキックへのこだわり、思いは?

それだけって言われるのが嫌なので、意識したのはプロに入ってから。それまではゲームを支配する力、ドリブル、パス、スルーパスのちょっとしたおまけのつもりだったけど、それがキック、フリーキックが残ったのは不思議な感じだけど、やっていて良かったなと。こだわりは、PKと同じくらいの感覚で決めるんだという意識はある。蹴ったら必ず決まるという状況をチームメイトに見せて信頼してもらう。それはキックだけじゃなく普段のプレーもだけど、それはこだわりだと思う。

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2度経験したワールドカップの自身のキャリアへの影響は?

やっぱり日本の代表としてワールドカップに出るのは目標だった。誇りですね。結果、両大会とも結果を出せずに終わってしまったけど、自分の力のなさを気づく場所、時があったのでまた次に向上意欲を持てるというか、目標を立て直せるというのがもしかしたら自分のサッカー人生の繰り返しで、良いこともあれば挫折もある。そのたびにちょっとずつ上に上がれたのかなと。

カタールワールドカップに出場する日本代表へ

本番までに、大会中もそうだけど、大きな怪我はしないで頑張って欲しい。僕らの前の先輩たちがワールドカップへ行けなかったり、カズさんのドーハだったり、そういうのを見て次の世代、日本のために頑張ってもらえれば。

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印象に残るゲームは?

松田選手が亡くなって最初の試合がレイソル戦。ボールも、足も地に付いていない感じでやって、あの悲しい感じでやったのは1試合だけですね。マツさんだったら今、何を考えているかなとか、こういう状況でどうしてるかなとか、考えるようになった。僕を変えようとしてくれた人なので。残念だったんですけど、次に進まなければいけないので、そういう思いでやっていました。

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次は指導者を目指すとされているが、現時点でのビジョンは?

ストラカン監督もそうだけど、小学校の時から教わった監督や指導者が自分にしてくれたこと、支えてくれたことを自分がやることで、少しでも恩返しになるかなと。

キャリアで最も胸を張れること、誇れることは?

高校の時に桐光学園のこともあってサッカーノートを書くようになって、中期、長期と目標を書いていた。それをどんどん目標を越えて叶えていって、そうなろうという気持ちは強くなかったけど代表で10番を付けてワールドカップで。目標に向けて努力できたことじゃないかと思う。

現役最後の試合を終えてからも、練習参加している狙いは?

「あの人スパイク脱がないな」っていう雰囲気になっていたけど、練習があるならやりたい。1月1日まで横浜FCとの選手契約があるのでやらせてもらっているけど、この時期は来季に向けてとか、休み過ぎてもよくないというのもあってやっているので、最後に皆と楽しくサッカーを、ボールを蹴れたら良いなと思って。

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指導者としての目標は?

今はないですね、こうなりたいより、こうなりたくないというほうが多い。選手の時にそういう場面を見てきたりすると、今のところは自分の経験上でしかないのでこれからはゼロで皆さんの経験を吸収して作り上げていくものだと思う。柔軟にやっていきたい。

セルティックの時に日本人がどれだけできるか自分は実験台だと。何を残せたと思うか?

そう言ってました?言ってましたね。俺はこういうプレーヤーだっていうだけでなく、こうやったらこうなのかというあえて悪いほうを通ったりとか。結果として、自分の良い結果が出なくても選手やチームメイト、指導者としての引き出しや財産になることもあると思うので悔いはないし、良かったと思う。その結果はこれから指導者として伝えていければ。代表の時に長友もすごく聞いてきて、海外はどうですか、どのタイミングで、喋れたほうが良いですかとか、貪欲な選手には話したけど、そうじゃない選手にもこれからは時間もあるのでそうしていければなと。

理想の監督像は?

選手の時はあったけど、それもあまり作らないほうが良いのかなと。自分の感覚や物差しでやると伝わらないとか、良いことがないかもしれないと。演じないといけないこともあるだろうし、自分が答えが分かっているからこそ教え過ぎだといわれることもあった。自分で気づかせるのも大事。まだまだ勉強が必要。作らないようにしている。

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魅せるプレーという意味で、注目する日本人選手は?

小野伸二ですね。そこは変わらない。今の時代という言い方は好きじゃないけど、中央は360度のプレッシャーが来る。でも、そこのポジションに凄い選手が出て必要になることもあると思う。そういう人を潰さないようにしたい。伸二がまだやるので、すごく期待しています。

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ジュビロ磐田の時に印象に残っていることは?

当時はマリノスをどうするかという時に名波さんがすぐに声を掛けてくれた。アントラーズ戦のアウェーでゴールを決めた時に名波さんのところにいって皆で抱き合った時。選手で初めて監督のところに駆け寄った。名波さんは求心力があって兄貴的存在でサッカーをよく知っている。ああなりますね。あの瞬間は新しい自分が出た。嬉しかった。クリアボールでしたね、アウトサイドにかけて。クリアと思っていても松浦はずっと俺のパスと言って、そのこだわりは分からないけど、曽ヶ端選手を相手に良かったですね。

静岡での2年半について

感謝ですね、僕は通いで2時間半から3時間をかけて東名を走っていっていたので、近くの食堂の方と仲良くなって良い思い出ですね。地元の方もファンも良い人が多い。素晴らしい環境でやれたのでありがたかった。今シーズンは残念でしたけど、すぐに上がって来られると思うし、上がってこないといけないチームだと思うので頑張って欲しい。

横浜の地に対する思いは?

僕は深園というクラブチームで若林先生の下で初めて、小学5年生で横浜市の選抜に選ばれて、6年生主体なのに5年生で選ばれた。その時の堀内会長が周りの意見を聞かずに年齢は関係ないと入れてくれた。初めて親と行った三ツ沢はスタンドがコンクリートだけ、日産対読売、木村和司さんとラモスさん、カズさんがいて、虜になってここでやりたいと。今、三ツ沢でプレーできて三ツ沢で終われたので本当に運が良い。良かったなと思いますね。

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サッカーとは?

生きがいですね、すべてですね。それに尽きると思います。

凄いなと思った選手や後輩は?

先輩は井原さんと川口さん、マリノスでパッと新人で入ってすぐに気づいた。良くしてくれたし、プロってこうなんだと。しかも代表の上まで行くのはこうなんだと毎日見られたのは大きかった。あとはボンバー、中澤さんですね。年下は、うーん、長友さんですね。ビッグクラブに行く階段というのが、最初は大学生で太鼓を叩いていたのに強化指定でFC東京、そしてイタリアに行ってインテル、年数に対する成長の仕方が興味があって、よくそれについて話した。その向上意欲や私生活からのサッカーへの姿勢には学ぶことがたくさんあった。彼のことは尊敬できますね。

ターニングポイントになった移籍は?

イタリアに行った時と、マリノスを出た時ですね。イタリアに行く時は、日本で出なきゃと焦るくらいだった。当時は世界最高峰だったセリエAに行くのを焦るくらいだった。本場のサッカーに飛び込んだのは、良かったと思いますね。扉をようやく開けられた。代表の時にサンドニで0対5で負けて、このままじゃ置いていかれると気づいたし、やっとこの舞台でやれるというので、すごく光が見えた感じだった。

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40歳を目途に引退と話していたこともあったが、44歳での引退となったことについて

本当に周りの方々の支え、トレーナー、病院の先生は手術や注射など足首の状態が悪いなかを試行錯誤しながら、相談しながらどうするかと。それがあって長くできたと思う。今はやりつくしたというのがあったけど、まだ何かあるという気持ちでいられたのが大きいと思う。

現役を終わって最初のオフはどうするか?

現役の時は1週間くらいしか休まない。でも、変わらないと思う。身体を動かしちゃうと思う。仲間とサッカーをするだろうし、家族と旅行も毎年するようにしている。あまり変わらないと思う。来シーズンは今のところ決まっていない状態ですね。でも、サッカーに携わっていきたいと思う。

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中村俊輔からのメッセージ

今まで所属してきた横浜マリノス、横浜F・マリノス、レッジーナ、セルティック、エスパニョール、ジュビロ磐田、横浜FCの選手、関係者の方々ありがとうございました。マスコミの方々もありがとうございました。日本サッカー協会のおかげで代表で良い経験もさせてもらいました。ありがとうございました。ファン、サポーターの方々がいて自分はここまで成長できたと思うので26年間一緒に戦って下さり、ありがとうございました。やり尽くしたという気持ち、すがすがしい気持ちで終われたので自分でもホッとした、良かったという気持ちです。26年間ありがとうございました。

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なお余談ですが、WOWOWの特別企画番組(2022年7月放送)にて俊輔は久保建英にフリーキックを伝授しています。

俊輔が久保と同じように若かりし頃、日本代表の10番が代名詞であったラモス瑠偉の引退セレモニーでラモスからパスを受けた俊輔にスタジアム中から割れんばかりの大歓声が起こりました。

俊輔の引退という事実を目の当たりにして、番組での俊輔はラモスを思い起こさせます。

木村和司からラモス瑠偉へ、ラモス瑠偉から中村俊輔へ、中村俊輔から久保建英へ。他にも日本代表の10番を背負った選手はたくさんいますが、この系譜こそが日本の10番の真の継承のように思えてなりません。

人々にファンタジーを見せる日本代表の10番が日本サッカーを輝かせ続けることを願います。

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